1-FPSS




第1回会合は2017年6月10日(午後1時45分~4時30分)、日仏会館にて開催され、今後の方針について幅広い議論が展開されました。参加された皆様には改めて感謝いたします。

ポスター

趣旨

第1回サイファイ・フォーラムFPSS、盛会のうちに終わる (2017.6.10)


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会のまとめ

2017年6月10日、第1回の会合が18名の参加の下、日仏会館で開かれた。参加者の内訳は、現役科学者6名、元研究者8名、哲学者1名、サイエンスコミュニケーション1名、一般2名で、科学者の専門は、神経生理学、神経内科学、神経心理学、免疫学、小児科学、遺伝学、物理学、農学、工学など、多様な分野に跨っていた。最初の呼び掛けにもかかわらず、関東だけではなく、北海道、東北、関西からの参加があり、ここで改めて参加された皆様に感謝したい。

会は参加者の自己紹介から始まり、呼び掛け人の趣旨説明が続いた。その概略を改めてまとめると、以下のようになるだろう。

そもそもの始まりは、オーギュスト・コント(1798-1857)の唱える三段階の法則に触れた時に湧いてきた呼び掛け人の反応であった。法則では、社会や人間精神は神話的段階、形而上学的段階を乗り越えて最高の段階である実証的段階に至るとされ、科学は実証主義を自らの哲学として採用し、これまで大きな成果を上げてきた。前二段階を文化とすれば、文化から文明への進化を遂げるのが人間であるということにもなるだろう。このように大雑把にまとめると、そもそも科学には文化的要素がないことになる。ただ、科学を経験した後に科学について考えようとしていた者にとって、前二段階を捨て去ることはその思考を貧弱なものにするのではないか、それは勿体ないことで、寧ろ人間精神が本来持っているすべての要素を取り入れて科学について振り返るべきではないかという認識に達し、「科学の神学・形而上学化」、略して「科学の形而上学化(Métaphysicalisation de la science)」と呼ぶことにした。この精神運動は、「科学を文化にする」ものとも言えるだろう。その上で、この過程を経たものを新しい科学、あるいはわれわれの知の全体として捉え直そうという提案でもあった。

専門化の著しい現代を生きるわれわれは、専門の中での知が満たされればそれで「よし」とする傾向を持っている。そこでは自らに向かう批判的な検討、すなわちオートクリティーク(l'autocritique)という精神運動が起こらない。もし「科学の形而上学化」が唱える新しい知の全体に向かうことが人間の規範であるという認識を多くの人が持つようになれば、この状態を変えることができるのではないか、という期待がそこにある。つまり、科学者は文系の知を常に頭の片隅に置いて科学について考え直さなければならない状態になり、それは自らへの注意力を高めることにも繋がるものと想定される。そのためには、まず指導層がそのような認識を持つことが重要で、その下での教育という問題も出てくるだろう。このような基本的な認識の下、科学について科学的思考(プロメテウス的態度)からだけではなく、文化的な側面(オルフェウス的態度)からのアプローチも同等に重要なものと見做して行こうというのがこの会のイメージである。その際に扱うテーマをシェマティックに分けるとすれば、科学とその周辺、特に社会との間にある哲学的課題と科学が齎した成果の中にある哲学的テーマが考えられ、中には相互に重なるものもあるかもしれない。

いずれにせよ、これらの枠組みを念頭に置いて、当面の間どのようなスタイルで会を進めていくのかについて自由討論に入った。その中で、参加者の皆様がそれぞれの立場で出会い、考えてきた多様な問題が提示された。ここでは呼び掛け人のフィルターに引っ掛かってきたテーマを順不同で紹介したい。 

● 科学の営みに入り込む価値について: 論文や研究費の採択を判断しなければならない状況に直面した時、没価値ではいられなくなる。つまり、科学からは排除されているかに見える価値がそこに入り込む余地が出てくる。その意味では、科学の営みの中に哲学はすでに入り込んでいると言えるだろう。そこで問題になるのは、すでに決められている基準についての哲学的吟味がどれだけなされているのかということになる。これは政策決定に関わるあらゆる局面で向き合わなければならない根本的問題になるが、どれだけの議論が行われているのだろうか。すでに決められた基準(例えば、研究の有用性、経済効果、国際競争力など)に従って判断せざるを得ないというところで終わっていてよいのかという疑問が出てくる。それは技術者の態度にしかならないからだ。その上のレベルになるだろう基準そのものについての議論、つまり哲学的検討が欠かせない。その時に必要になるのが、幅広い知であり、教養である。つまり、文系の知がどうしても必要になるのである。さらに言えば、哲学が本来持つ精神(自立、理性に従った判断、そして勇気)が欠かせない。  

● 教育における哲学あるいは文系の知の位置について: 例えば、「科学的とはどういうことか?」という問題を考える場合、科学の中にいたのでは答えが出てこない。どうしても科学の外に出て、人文の知に向き合うことが必要になる。教育に関連して、科学者には文系の知を、そして文系においては科学を必須なものとして教えることが欠かせないこと、そして、人文知に敬意を持つ科学者を育てる必要があるのではないかという提案があった。ただ、第5期科学技術基本計画をご覧になった方から、そのような視点は皆無であるとの指摘があった。  

● 言葉の定義について: 「科学の形而上学化」という言葉を使っているが、そこで言う科学とは何を指しているのか? 科学とはイノベーションと同義ではないのか? 「科学的」であることと「理性的」であることとの間にどのような関係があるのか? さらに「形而上学」や「哲学」をどのように捉えるのか? このような言葉の定義が重要であるという指摘があった。定義は重要であり、哲学の大きな仕事ではあるが、これらの概念は非常に大きな言葉なので、相当の労力を要すると想像される。したがって、大上段に構えるよりは、これからの歩みの中で定義の問題を意識しながら議論することの方が得策ではないかと思われる。  

● 科学の有用性と人間の幸せとの関係について: 特に20世紀に入ってからの科学の発展は著しく、多くの成果をわれわれに齎してきた。その成功のため、十分な検証が行われないままに来たことも否定できない。「科学は進歩したが、人間は幸せになったのか?」という問いである。一つの例として出されていたのが、効果的な治療薬が見つかりはしたが、その費用が莫大になるためにすべての人に適用できないという問題が生まれている。それから非常に容易にゲノムに手を加えることができる「ゲノム編集」の技術も最近の大きな進歩だが、それが齎す問題点も指摘されている。つまり、科学はその意味を考えてから始めることがない営みであるため、問題が後から付いてくるという特徴がある。この状況は「哲学は役に立つのか?」などという問いを弄んでいる場合ではなく、常に哲学的検証が欠かせない領域なのである。同時に、「人間の幸福とは何を言うのか?」という問いも内包されている大きな問題である。  

このような状況を考慮に入れると、政策決定においても哲学が重視されなければならないだろう。しかし、現状では政策決定の過程に哲学者が入っていることは殆ど皆無だが、それはなぜなのかという問いが出された。哲学者の側からは、一言で言うと、そのような問題に対応できるだけの哲学の状況ではないとの答えが返ってきた。これは哲学そのものが持っている力の限界を示しているのではなく、日本の哲学の状況の問題を示すものだろう。この会に期待しているのは、このような問題に対する枠組み、科学の営みに対する指標、倫理のようなものを創出することであるとの声があった。われわれにそのようなことが可能なのかどうかは現段階では全く見えないが、この点にも注目しながら歩みたいものである。  

このことに関連して、好奇心から始める科学を見直してはどうかと唱えている「エコエティカ」の提唱者、今道友信氏の考えを紹介されている方もいた。ただ、アリストテレスの昔から「人間は知りたいというパッションを持っている」と指摘されており、人間の根源的なエネルギーを抑えるのは至難の業になるのではないだろうか。ただ、アポステリオリの哲学的検証と共に、アプリオリの抑制が実際に可能なのかどうかについて考えることには意味があるかもしれない。  

● 脳と心の関係について: この問題は現在でも大問題である。心理学は科学か?という問いがある。心の動きを理解するために還元主義を導入することだけでどれだけ解析できるだろうか?神経心理学の領域の方から、心の働きを規制しているより上位の枠組みを明らかにすることができないかという問題意識が提示された。  

● 人間の知能とAI(artificial intelligence)との違いについて: AIに哲学は可能なのか? 価値の創出はできるのか? 感情の分析はできるのか?などなど、いろいろな疑問が湧いてくる。両者の相違を明らかにすることにより、人間に特有の知性がどのようなものであるのかが分かるのではないか。AIが齎す新たな世界とともに、このような視点から議論の対象にすることはできるだろう。

● 科学研究への哲学の応用について: 哲学者の側から、(意識的に)哲学を科学に応用することはあるのか?との問いが出された。哲学的な問題はそれぞれの科学の中に内在しているが、それを意識して哲学として論じ、利用していることはどれだけあるのかという疑問だった。この問題は個別の議論を重ねる中で、明らかにされるのではないだろうか。  

● この他にも多くの問題が出されていたが、最後に一つだけ呼び掛け人が興味を持ったことについて触れておきたい。それは、誤解がなければだが、体験が先に来るというゲーテのやり方である。一つの目的が先にあり、そこに向かっていくという一見効率的なやり方の対極にあるもので、呼び掛け人の生き方にも通じるものである。つまり、最初にこの世に身を晒して原体験を蓄えた後にその全体を振り返り、その生命体が持っていた目的を明らかにするというものである。この会においても、随時目的を決めることはあってもベースのところでこの視点を失いたくないと考えている。  

これらの議論の後、基本となる考え方として次のことが確認された。  

まず、これから議論を進める時に、「プロメテウス的態度」だけではなく、「オルフェウス的態度」を同程度に尊重するということである。その上で、科学の存在意義、本質をどのように捉えるのか? そこから科学の進むべき道をどのように考えるのか? それが現在行われている科学の姿とどれだけ乖離しているのか?  そして、これらの問いを基に新たな哲学の可能性を探索することである。  

第二には、この世界に存在する「もの・こと」は人間の幸福に資さなければならず、科学も例外ではない。人間が生きる意味の中に幸福の追求が挙げられる。しかし、われわれ人間は他のすべての生物が生きる環境に存在している。したがって、科学が目指すべき道として、人間を含めたすべての生物、さらにはそれらを取り巻く環境の安寧と調和を念頭に置くべきだろう。この思想的な枠組みを常に持っていることの重要性が確認された。  

これからの具体的な運営に関しては、当分の間、賛同者の方が各人の活動の中で感じてきた問題点などを発表することにした。その際、一つのテーマを決めて議論するのか、ランダムに発表していただくのか、これから様子を見ながら対応することになるだろう。いずれにせよ、上で確認された点を意識しながら、それぞれの発表について議論していきたいものである。皆様のご理解とご協力をお願いしたい。  

* このまとめについて、誤りや誤解、追加したい点、さらにコメントなどがありましたら、遠慮なくお知らせいただければ幸いです。よろしくお願いいたします。



賛同者・参加者からのコメント


● 会に対して提案です。

1)わたしのように、なかなか、まとまった時間は取れないけれども、会の趣旨に賛同し興味を持っている方も多いと思います。ウェブ上に議論ができる場を作っていただけると、24時間、いつでも、どこにいても、議論に参加できますので、そうした場があるといいのではないかと思います。フェイスブック上で情報発信を兼ねて意見交換できるといいのではと思います。  

2)リアルの会は、ヴァーチャルの会と相補関係的に、定期的に実現されると、より効果的だと思います。  

3)研究者の方や元研究者の方がお集りですので、ご自分の問題意識をなんらかの形で発表される場(リアルでもヴァーチャルでも)があると、みなさんの才能が創造的に生かされるのではないでしょうか。  

以上、僭越ですが、意見を述べさせていただきました。 

● 本日はありがとうございました。初めての参加で、見当違いの発言もあったのではないかと少し不安な気もしています。急な呼び出しがかかり帰らなければならなくなり、懇親会に出席できず残念でした。今後ともよろしくお願いいたします。
 
● 今日はありがとうございました。科学者でもない私が、的外れの発言をしたのではないかと~。どうか、今後ともご指導の程よろしくお願い申し上げます。次回の開催、楽しみにしております。

● あれだけのいろいろな分野から科学者(私もその中に入っていればいいですが)が集まって討議する機会というのはなかなかないのではないのでしょうか。貴重な機会と思って感謝しております。

● ありがとうございました。私の想像もできない凄い人たちがいることを知りました。

● どうも有り難うございました。最初から20人規模の集まりになるとは思いませんでした。アカデミックにはかなり長けた皆さんが集まり、また科学コミュニケーションの分野の人もいて、多彩なアプローチができそうですね。年に一回か二回の集まりとすると、提案されていたように、フェイスブックなどで自己紹介とか興味の持ちどころを共有できると、発言のバックグラウンドがわかり良いかも知れません。

● お世話になっております。このたびのサイファイ・フォーラムでは大変にお世話になりました。稀に見る刺激的かつ意義深い意見交換の機会を許され、錚々たるメンバーの中で発言できたことを誠に喜びと致します。10月の会合ですが、全日程参加可能です。よろしくお願いします。

話題提供・議論ですが、少し考えてみたところ以下の四つのうちのどれかを検討しています。FPSSの常連メンバーになるつもりですので毎回の話題提供でも結構です。概略以下の通りです。


①「プロメテウス」と「オルフェウス」の問題

FPSSの議論にも出た「プロメテウス」と「オルフェウス」の自然観は科学者における自然理解として貴重な示唆を与える。アドにおける「イシスのヴェール」で表明されたこの二つの自然観はやや図式化された嫌いがあるものの、科学者が「自然」概念を考える際には有益な議論が期待できる。とくに芸術や文学に「オルフェウス」の自然観の展開を求めるアドは、わが国の俳句や自然描写にも関心を示している。アドの議論にわが国の文学・芸術の議論を架橋するかたちで「オルフェウス」の自然観の現在を考えたい。   

②日本における「生き方としての哲学・科学」(1)――橋田邦彦における「行としての科学」をてがかりに――

「生き方としての哲学」はいまなお可能だろうか。戦前の生理学者・思想家である橋田邦彦は東京帝国大学生理学研究室の泰斗として戦後の自然科学界に大きな影響を与えている。他方、彼は生理学者としてのみならず「行としての科学」「科学する心」「自然の観方」など禅宗や陽明学に学ぶことで数理的自然観を相対化し、「全機性」なる自然観を打ち出し、自然科学研究者における「生き方」を説いたことでも知られる。「名取の階段」など彼の思想が自然科学研究のブレイクスルーに導かれた事例をも踏まえ、現代日本における「生き方としての哲学」の可能性を橋田の議論から探りたい。     

③日本における「生き方としての哲学・科学」(2)――今道友信における「エコ・エティカ」の側面から――

わが国を代表する哲学者として欧州の哲学界で著名な今道友信は1960年代から「生圏倫理学」すなわち、「エコ・エティカ」を提唱している。彼は徳倫理学を意識した議論展開を見せる一方、「行為の三段論法」「技術連関」「新しい徳目」など議論の総体はヘレニズム・ローマ期における「生き方としての哲学」における哲学分類(論理学・自然学・倫理学)と精確に合致する。「生き方としての哲学」の現代的展開として彼の議論は妥当し得るか、われわれはこれをどのように批判し「哲学と科学」の関係を考えるか、議論したい。   

④「文理融合」の実質と哲学の位置――「体育学」の事例から考える――    

人文社会科学と自然科学の学際的な共同研究については現在までに多くの事例を指摘できるのであって、哲学と自然科学との協働事例においてはポパー&エクルズの『自我と脳』、またはリクール&シャンジューの『脳と心』などが挙げられる。ところで、体育学は哲学や歴史学、社会学や人類学といった人文社会系学問に加えて運動生理学あるいはバイオメカニクスや測定評価学といった自然科学系学問、さらには障がい者スポーツを研究対象とする「アダプテッド・スポーツ科学」や「介護福祉・健康づくり」専門領域といった社会貢献を企図した分野に至るまで「人間の身体運動」をいわば鍵語としてあらゆる学問領域が結集する学際的分野である。「文理融合」「学際」のこれからのあり方と科学研究における哲学の貢献方途について、体育学から考えてみたい。  

いかがでしょうか。こちらとしても貴重な議論の機会ですのでFPSSの趣旨に沿うように改変することも承ります。御礼と今後のご提案まで。

ありがとうございました。なかなか面白い会になるのではないでしょうか。幾つかテーマを決めて議論し、それが形となって社会に向けて発信できれば良いと思います。pure scieneにどのscienceが良くてどのscienceが悪い、といった価値評価を持ち込むことは正しいのか、あるいはできるのか、といったことを、今考えています。実は、pure scienceなどないのではないか、そもそもscienceとは何か、scienceが好奇心や欲望の上に成り立っているものとすると、artとの違いは何か、artに於ける作者と観客の関係はどうなっているのか、観客は必須の要素か、scienceに於いてはどうか、など色々と疑問が湧いてきます。こうしたことを皆んなで議論できれば、楽しいと思います。


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 (2017年6月14日)








 

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