3-FPSS



第3回会合を以下の要領で開催いたしました 



第2回サイファイ・フォーラムFPSS研究討論会

2018年6月30日(土)13:40~16:30

日仏会館 509会議室


 プログラム 


(1) 13401345 矢倉英隆 イントロダクション 

(2) 13451405
   林 洋輔 「ロゴスの戯れ」としての哲学: 遊戯論からの視点

     14051435 ディスカッション

(3) 14351455  
   尾内達也 Time being-labor being theoryの提案  

     14551525 ディスカッション

(4) 15251545 
   白石裕隆 「マインドフルネス」による科学と哲学の融合に向けて

     15451615 ディスカッション 

(5) 16151630 総合討論    






要 旨

(1)   林 洋輔:「ロゴスの戯れ」としての哲学: 遊戯論からの視点
参考資料: 発表原稿
 20世紀オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガの著作『ホモ・ルーデンス』において、「遊び」の観点から哲学の実質を論じた議論が知られている。プラトンの対話篇および古代ローマそして中世スコラにて行われた論争に着眼しつつ、「哲学もまた遊びである」と断じた彼の記述は哲学の実質を捉え直す有益な示唆をわれわれに与える。そこで本発表ではホイジンガの議論枠組みを継承する形で以下の二つの着眼に拠りつつ議論が進捗する。すなわち一方で古代より現代に至るまで哲学史とは「論争」の歴史でもあることに着眼し、他方では精緻な論理と修辞表現を駆使しながら「競技」の形式を採りつつ論争の進められたことに着眼する。そして諸論拠をもとに「哲学とはロゴスの戯れである」との回答を提出し、当該命題の是非をめぐって質疑による討究に入りたい。
 
(2)   尾内達也:Time being-labor being theoryの提案
1.理論の着想まで
Time being-labor being theory(以下、TB-LB theoryと表記します)は、時間と空間に関する新しい考え方です。この理論を着想した背景や問題意識をはじめにご説明します。
2.TB-LB theoryの3人のキーパーソン  
TB-LB theoryは、次の3人の考え方をヒントに構築しています。一人は道元、二人目はルカーチ(マルクス)、そして三人目がヴィトゲンシュタインです。この三人の思想をどのように取り入れたのか、ご説明します。
3.TB-LB theoryの新しさについて  
従来の時間論・空間論と比較してどこが新しいのか、また、どこが有効なのか、とりわけ、物理学の時間と空間の考え方と対照してご説明します。
4.TB-LB theoryの諸命題の解説  
TB-LB theoryの中からキーになる命題をいくつか取り上げて解説します。
5.今後の展開と展望  
TB-LB theoryはまだ未完で、現在も思索中です。具体的な諸問題に対して、どのように有効性を発揮できるのか、その展望を示します。

(3)   白石裕隆:「マインドフルネス」による科学と哲学の融合に向けて
参考資料: 発表原稿
 自然科学の啓発・教育場面では、科学的素養が不足する受け手に対し、体感機会が乏しいままに、結果としての科学知識の「注入」に重点が置かれ、科学との「対話」の上で、科学的発見プロセスの面白さの追体験を含め、科学を自身の思考・思想の一部として取り入れられる機会が不足していると感じている。一方、哲学では、科学知識に基づく思索より、心を扱うにしても文系内容の考察が主体となっており、各々の分野の視野の範囲である「地平」(horizon)(注1)の融合の難しさを感じている。この点、禅の思想から派生した「マインドフルネス」では、所作(呼吸・歩行瞑想、日常動作等)を通じ、所作や観察対象の"ありのままの"体感と行為者の心の変化の肯定的な把握を重視する取組が行われており、体感・心の観察や科学現象の場面へのイメージ想起を媒介に前述の融合が図られる可能性があると感じている(注2)。 
 ついては、発表では、「マインドフルネス」の概要を紹介した上で、科学と哲学の「地平」の融合に向けた「対話」の取組として、「マインドフルネス」を取り入れた、①物理量単位(距離・時間・力等)を「取組単位」とした「地平」の拡張(単位の体感的理解等)、②「不動智」等の禅語(造語を含む)による科学的思索の促進、③思考・イメージ喚起・観察対象との同化視点である「主体視」をセットにした「4象限の理科学習モデル」を提案する。 そして、これらの取組により、「マインドフルネス」から「マインド・コネクト・フルネス」(科学と哲学の融合も含め、全てのものの繋がりの可能性に心を巡らす境地)に向けた可能性について考える。 
 なお、本稿は、第2回FPSSフォーラム(2017年10月28日(土))に当方が発表した、「50歳からの"セミ(プチ)矢倉氏生活"のススメ」の続編である(注3)。 

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(注1)矢倉氏のエッセー「パリから見えるこの世界(Un regard de Paris sur ce monde)」の第69回「ハンス・ゲオルク・ガダマー、あるいは対話すること、理解すること」において、ハイデッガーの弟子である、ハンス・ゲオルク・ガダマー(Hans-Georg Gadamer, 1900-2002)の「対話」の哲学にある概念(本発表資料の4ページで同エッセーの要旨を紹介)。歴史的に拘束された、1人の人間が見ている世界が1つの「地平」(horizon)に限定されていることを認識し、他の「地平」との「対話」の必要性を説いており、本要旨では、科学と哲学の「地平」に援用した。 
(注2)慶應MCC・アゴラ「マインドフルネス・ワークショップ」を2017年12月~2018年3月に受講した。本稿でのマインドフルネスについての記述は、当方が理解し、思考した範囲のものである。http://www.sekigaku-agora.net/c/2017/kt2017b.html 
(注3)発表レジュメ、補足資料掲載:http://sci-phi-fpss.blogspot.com/p/2-fpss.html
(2018年6月30日改訂)



会のまとめ

 今回も前回同様、賛同者の中から希望者を募って話題提供をしていただくという様式で行った。その結果、プログラムにある3名の応募があった。テーマは多様で、大雑把に言うと、遊びと時間とマインドフルネスになるが、それぞれの間に隠れた関連性が見えてくることはないだろうか。以下に、個人的なプリズムを通してみた印象を簡単に記してみたい。
(1)林 洋輔:「ロゴスの戯れ」としての哲学: 遊戯論からの視点
参考資料: 発表原稿
 本発表では、オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガ(1872-1945)の『ホモ・ルーデンス』とフランスの文芸評論家ロジェ・カイヨワ(1913-1978)の『遊びと人間』を軸に広く遊びについて考察した後、哲学はロゴスの遊びなのかという問いに向き合っていた。ホイジンガは学問に論争的、闘技的なものを見ていた。また、遊びは決められた時空における自発的な行為で、そこでの規則を受け入れ、行為そのものが目的になっている非日常の活動であると捉えていた。行為そのものが目的と言うところは、アリストテレスのエネルゲイアを想起させるが、そこで生まれる形容し難い無限の喜びはわたし自身が日常生活の中で感得してきたものでもある。そこから見れば、遊びの中に潜む悦びは容易に想像できるが、その悦びは遊び(非日常)の中に入ることなく感じることができるとも言える。あるいは、遊びと非日常を離して考えれば、日常が遊びの中にもあり得ると言えるだろう。また、ホイジンガが遊びの原点にいたのは古代ギリシアのソフィストだと考えていたようだが、遊びを完全なゲームとして捉えていたのだろうか。歴史上の論争もゲーム性を持った闘技として見る視点だけでよいのだろうか。カイヨワは遊びを4つの要素に分けて考えている。第一は競争(競技を意味するアゴーン)、第二は偶然(アレア=サイコロ)、第三は模擬(ミミクリー=物真似)、第四は眩暈(イリンク=渦巻)で、ここでも競技としての要素が取り上げられている。哲学を純粋なロゴスの戯れ、あるいはロゴスによる競い合いとする見方は、現代の哲学においても優勢になっているように見えるが、個人的にはそれだけでは満足できない何かを抱えている。
 質疑応答では多くの問題が出されていた。例えば、詩と哲学との交わり方をどのように考えるのかという問題やディベイトとディスカッションの違いが取り上げられていた。ディスカッションよりはディベイトの方がゲーム性が強いのではないかということだったように思うが、フランスのリセではディベイトの能力を高めることが一つのポイントにされていることを思い出す。そこではロゴスによる競技という要素があることを認めざるを得ないかもしれない。日本人がこれまではトレーニングされてこなかった領域になるだろう。また、哲学者の中で遊びを完全に排除した人はいたのか(例えば、カントやヘーゲルはどうなのか)という疑問や科学の中には遊びはないが、科学者には遊び(専門以外の領域、非理、非知の領域での)が重要になるのではないかという指摘があった。これはある意味で、全人間的思索が行われる意識の第三層の動員の重要性とも関連すると思われる。

2)尾内達也:Time being-labor being theoryの提案
 この発表では、時間をどう捉えるのかについて構築中の「時間存在、即、労働存在」論が紹介された。基本的な出発点として、探求への原動力は諸哲学から出るのではなく、諸々の事象や問題から出るはずだというエトムント・フッサールの観察があるとのこと。フッサールを愛するために生まれてきたとのご宣託を受けた者としては、最初にこの世界に身を晒してから哲学するという考えには同意できると思いながら聞いていた。まず、時間の問題に興味を持つに至った切っ掛けとして、(1)歴史修正主義の存在、(2)在日三世の作家との議論、(3)ジョージ・オーウェルの『1984』の言葉を挙げ、それぞれについて説明された。
 (1)歴史修正主義が有名になったのはホロコーストの否定が行われたためで、1978年創立の歴史修正研究所(The Institute for Historical Review: IHR)が代表格。その主張として、ホロコーストの矮小化、およびその計画性、唯一無二性の否定という特徴がある。同様の歴史修正主義者は日本にもいて、従軍慰安婦、南京大虐殺、朝鮮半島の植民地支配などで問題化している。そこで、なぜこのように過去が操作されるのか、時間とは何なのかという問題に興味を持った。
 スライドの中に「過去は一つ」という言葉があったが、考えるべき問題が含まれているように感じた。いま、わたしは過去を自分なりに復元して纏めを書いている。そこから出てくるものは、とても唯一の過去とは言えず、纏める人によって変わってくると想像される。何でもありの相対主義ではなく、過去の全体像を捉えることの難しさ、あるいは不可能性は考えておく必要があるように思う。
 (2)在日作家との対話では、それまで被害者として戦争の惨禍を見ていたが、加害者としての視点が欠けていたことに気付き、過去は中立的なものではなく、政治的、社会的に人間が作り出しているのではないかという思いに囚われた。
 (3)オーウェルに「過去を支配する者が未来を支配し、現在を支配する者が過去を支配する」という言葉がある。過去を支配するのは現在を支配する権力で、それは公的に歴史的な記録を改竄し、私的には記憶を改変することで行われる。つまり、過去は人間支配の対象になることが見えてくる。
 次に、時間操作をテーマ化したいという意図の下に構築中の時間論の中身が紹介された(<時間存在、即、労働存在>論の命題)。まず、時間と存在は別個にあるのではなく、時間は存在で、存在は時間であり、それは空間であると規定され、時間は労働時間であるという。時間存在の本質は人間同士の社会関係で、それが時間存在に先行する。時間存在は人間活動により現実化する、あるいは時間存在とは歴史的時間存在であるとされる。時間が独立して(人間が存在しなくても)存在するのではなく、あくまでも人間との関係性の中で存在するという立場を採っている。わたしが重要だと思ったのは、「過去は一切が終わっていない」という命題であった。続く命題が言うように、統治権力がそれを終わったものとして操作・修正・編集する力を持つとするならば、過去を終わらないものとして開いたままにしておく力、継続して問いを出し考える力が我々に求められるということでもある。最後に、この時間論の構築に影響を与えた道元ジェルジ・ルカーチルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインという3人の哲学者について紹介があった。
 質疑応答では、なぜ時間を労働時間に限定できるのかという疑問や、時間論のためには、例えばアウグスティヌスカントベルクソン大森荘蔵などの哲学者についても触れる必要があるのではないかという助言が出されていた。さらに、動物や植物における時間をどう考えるのかも問題にされた。今回の時間論では人間活動がすべてに先行し、人間以外は視野に入っていないようだが、動物にもユクスキュルの言う「環世界」のような独自の世界があるとすれば、人間とは異なるかもしれないが時間もあるのではないかというコメントもあった。これは人間中心的な見方と人間を他の生物の中に置く見方との対立でもあるだろう。なお、ホロコーストに関連して、参加者から「ゲッベルスと私」(岩波ホール)という映画の紹介があった。

(3)   白石裕隆:「マインドフルネス」による科学と哲学の融合に向けて
参考資料: 発表原稿
 本発表のテーマは、科学と哲学の融合における方法論としてのマインドフルネスということであった。実際には、所謂客観的な知識だけの世界ではなく、知識を得る主体の主観的、体感的な要素をそこに如何に取り込んでいくのかが問題にされ、そのためにマインドフルネスが有効になるのではないかということが説かれていた。まず問題意識として、科学と哲学における科学知の格差が指摘された。例えば、物理的な単位や地史的年代を体感的に理解することの難しさや科学知を単に分かりやすく伝えるだけでは及ばない受け取り手の内的世界がある。
 そのために、対話についての拙エッセイ「ハンス・ゲオルク・ガダマー、あるいは対話すること、理解すること」(「医学のあゆみ」265: 911-915, 2018)が取り上げられていた。その中で指摘されているのは、例えば、テクストと対する時に重要になるのは、歴史的に拘束されている一つの地平を持つ読み手が、やはり同じように拘束されている書き手の地平と共通する部分を探す「対話」の過程に乗り出すことであり、それはあらゆる対象に対する時にも同様であるということである。この姿勢が知識に主観の関与を促すものになると捉えられている。それから、日常の何気ない所作を始めとするあらゆる対象をありのままに体感するマインドフルネスも対象(知識など)を主観の中に導入する一助になるのではないかとされていた。
 さらに、現代において多くなりがちな活動として、型に嵌った思考、知識に基づく論理的思考、外からの情報入力への集中(外観)、脳のアイドリング状態に関与するデフォルトモード・ネットワーク(DMN)を挙げる一方、少なくなりがちなものとして、あるがままに感じる自由な想念や芸術活動、自分の心象の観察(内観)、目標に向かっての思考状態に関与するセントラル・エグゼクティブ・ネットワーク(CEN)、およびDMNとCENの切り替えに関わるセイリエンス・ネットワーク(SN)を挙げていた。ただ、DMNは特定の目的に向かう思考ではなく、言わば心を彷徨わせること、あるいは自己に返る思考に関与するとされており、CENはその対極にあるものなので、提示された分類と逆にしてもよいのではないかという見方も成り立ち、個人的にはやや疑問が残った。また、SNは両者の上位にあると理解されているので、どこに位置付けるか難しいところがあるようにも見える。
 マインドフルネスを取り入れた具体的な取り組みとして、4象限の理科学習モデルが紹介された。具体的には、物理量の単位などを体感的に理解できるようにすること、禅語を用いて科学知の補完をしたり、それを利用して自らの思考世界を広げること、そしてこれらを基に、単なる知識を中心にした自己と離れたところにあるものの学習から主体的に科学知の世界に身を置くような態度への切り替えが必要になるとしている。その中で、生徒にイオンになって考えてもらうということが指摘されていたが、これはジャック・モノーが化学の問題を考える時、もし自分が電子だったらどうするのかを自問すると語っていることにも通じ、創造性の発露にも関係する重要な点になるだろう。
 質疑応答では、ここで言われている哲学のイメージが明確ではないという指摘や観想・内観に達するにはマインドフルネスだけではなく、例えば、ランニングなど、他にも方法があるのではないかとの指摘もあった。事実、個人的な経験では、瞑想というような具体的な方法を採ることなく観想状態に入ることは可能ではないかと考えている。ただ、忙しい日常の中にいる場合には、そこから物理的に断絶する方法が必要になるのかもしれない。そのことに関連して、マインドフルネスの状態は創造的な仕事をしている人には共通して見られることで、その状態が阻害されている社会状況の方が問題で、ロゴス偏重で遊びがない状態ではマインドフルネスに入ることは難しいとの指摘もあった。創造的な精神活動が盛んに行われるようになるためには、どのような方策が考えられるのだろうか。そこではやはり人間は如何に生きるべきなのかという根源的な問いに対する思索が必要になり、その結果、内的生活の充実が重要であるということが認められることが条件になりそうである。このような思索が行われるためには自己に返る静かな時間が求められるというサーキュラーな関係が現れるようである。
 今回の3つのテーマは表面上あまり関係がないように見えるが、こうして振り返ってみるといくつかの繋がりが見えてくるようである。これは「偶然性の中に潜む関連性」とでも言えるもので、実に興味深い。これをお読みの皆様方にもそれぞれのテーマを発見する楽しみを味わっていただければ幸いである。


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第3回を終えて
 本フォーラム立ち上げ時の意図(FPSSの趣旨)は、科学者の側から自らの研究成果について、より広い視点から分析を加えるというもので、その中では研究成果に潜む哲学的テーマや歴史的課題についての考察も必要になるだろうという考えがあった。フォーラムのやり方として、ある具体的な目的を定めてそこに向かうという方法もあるだろうが、個人的にはその姿勢にやや抵抗を感じている。上で述べた大枠の中をゆっくり歩む過程で何かが見えてくれば素晴らしいというイメージを持っており、その方が予想もしないものが現れる可能性が高いと考えているからである。
 前回は時間配分の関係で非常に窮屈な議論になったため、今回は時間に余裕を持たせた積りだったが、もっと時間があってもよいと思わせるところもあった。ただ、発表者が発表内容をコンパクトにして、議論してほしい点を明確にするようなプレゼンテーションをすることで改善できるところもありそうである。ソクラテスは、哲学における対話は問題の本質に迫るために時間を気にすることなく行うもので、それが世間一般の対話とは異なると言っている。その点には同意するところがあるので、より満足のいく哲学的な議論ができるように、いろいろな工夫を重ねていきたいと考えている。
 会の最後に確認しましたように、次回もこれまでと同じような要領で進める予定です。これまでは科学者からの発表が少なかったので、積極的に応募していただければ幸いです。また、発表者が重なる傾向も見られますので、未発表の方の応募も歓迎いたします。次回は新しい方の発表を優先したいとも考えております。これからも歩みながら考えていく予定です。今後ともよろしくお願いいたします。


参加者からのコメント

● 貴重な発表の機会をいただきありがとうございました。やはり、プレゼンテーションは難しいものだと感じています。また、自然科学系の方々との議論のすれ違いは、私には、いつも、いろいろな意味で興味深く、今後の思索の方向性も議論の中から出てきたように感じています。自然科学、とりわけ医学が、その学の目的と理念を明瞭に持っていることに対して社会哲学は、探求の目的さえ探求するような、前提のないところから出発し、逆に、アプリオリな前提を破壊することで見えてくる真理に人間の自由と解放を賭けているのかもしれません、それが逆説的に桎梏になる弁証法も十分に意識しながら。毎回、会の準備、お疲れさまです。今回の話題提供がみなさまになんらかの刺激になったとしたら、これに勝る喜びはありません。
● 本日は有意義な会の設営、有り難うございました。発表時間と休憩時間の設定(「遊び」)に課題を感じました。
● 昨日は、大変有意義な時間と機会をつくってくださり、感謝申し上げます。ありがとうございました。あくまでも私の所感であり、強いこだわりがあるわけではありませんが、参加者皆さまにとっても年に2度ほどの貴重な時間でもありますので、問題提起いただく時間は、お一人あたり、あるていど1~2点に絞られた内容を15~20分ほどいただき、皆さまが参加可能なディスカッションの時間を多めにとられたら、有意義な時間を一人ひとりが持ち帰ることができるのではないでしょうか。もう一点、FPSSがどのような方向に進まれることが望ましいのか、その辺りのかじ取りが多少あってもよいのかもしれないとも感じます。そのベクトルは、社会に向いているのか、科学者コミュニティに向いているのかそれとも、参加者の皆さんが満足するという方向なのか、その辺りも、少し気になるところでもありました。これからも楽しみにしております。どうぞよろしくお願い申し上げます。
● おはようございます。土曜日は大変お世話になりました。おかげ様で今後の研究に向けて有意義な弾みがつきました。
● 大変刺激を受けた集まりでした。私は哲学を遊んでいる(議題にありましたね)のですがそうではなく何かを訴えて活動されているのはすごいと感じました。科学に近い領域で活動されている方や社会とのかかわりが強い領域で活動されている方などから興味深い内容で丁寧にまとめられた考えをお聞きして啓発されました。特に思索をヴィトゲンシュタイン風に展開された理論には少し驚きました。またの機会にぜひお聞きできればと思いました。次の機会があればぜひ参加したいと思っております。
● 当日、私は遅刻して途中参加のため、白石氏の発表についての感想になりますが、とても独創性のある着想だと思いました。物理量単位(距離・時間・力等)を体感的に理解してみるということで、地表面の地層に見られる「万年単位の時間」を、黙想した短い1分くらいの時間枠の中で感覚的につかむという体験など面白かったです。マインドフルネスは、ひたすら詰め込み自由な発想の目を摘むあり方とは真反対のもので、やはり「学び」の根本にあってしかるべきものだと思いました。「マインド・コネクト・フルネス」という白石氏の造語(科学と哲学の融合も含め、全てのものの繋がりの可能性に心を巡らす境地)とは、ルネサンス期に諸学問を総合させた万能人の境地では、と思いました。
● 先日はFPSSに参加させて頂き、ありがとうございました。久しぶりに頭を使ったような気がしました。楽しかったです。次回も日程が合えば参加させて頂きます。
● いつも貴重な時間を設定いただき感謝いたしております。#3-FPSSでは大変興味深い話題が続いたのですが、議論に参加できなかったのが残念でした。今後の進め方としては、問題提起はやはり2件程度に絞って議論の時間を充実させたほうがよいように思いました。
● 大変丁寧なまとめをいただき、ありがとうございます。このまとめは、TB-LB theoryの内容に関するまとまったものとしては最初の反応です。とても参考になりました。過去の全体像はおそらく捉えることは困難でしょう。私が「過去は一つ」と言ったのは、歴史修正主義に対するアンチテーゼの意味合いで、やや誤解を招いたかもしれません。歴史は、支配者が制作する過去と、歴史的被害存在の痛みが制作する過去が戦いを繰り広げる場に成立しており、これまでの「歴史」は、ほとんど前者の歴史だったと言い切っていいように思います。この「歴史」を組み替えるために、たとえば、日本史を古代から、植民地主義の歴史(侵略の歴史)として組み替えたらどうかという提案も中東の専門家からも出されています。この歴史的被害存在の痛みの表現として、芸術作品の有効性に注目しています。芸術が過去存在を制作する面があり、それは非常に重要だろうと思います。それが詩や小説であれば作品とその読み方(批評)が一体的に重要になってくると思っています。これまでの作品も、この点からの読み直しが必要なのかもしれません。今後の検討課題として、何人かの哲学者、物理学者、生物学者の名前もあがり、ありがたく思います。とくに、大森荘蔵、カント、ジュリアン・バーバーの三人は早急に検討していきたいと考えています。



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(2018年7月7日)







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