2-FPSS

 


第2回サイファイ・フォーラムFPSSのご案内

ポスター 


日時: 2017年10月28日(土) 13h40~16h25

今回はフォーラム賛同者4名の方の話題を基に議論を進める予定です
  

プログラム   

(1)13:40-13:45 矢倉英隆: イントロダクション
(2)13:45-14:20 牟田由喜子: 日本におけるサイエンス コミュニケーションの歴史と現状
(3)14:20-14:55 白石裕隆: 50歳からの「セミ(プチ) 矢倉氏的生活」のススメ
(4)14:55-15:30 林 洋輔: 「文理融合」の実質と哲学の位置―「体育学」の事例から考える―
(5)15:30-16:05 佐賀徹雄: 生物多様性農業
(6)16:05-16:25 総合討論


会場: 日仏会館 509会議室



会費: 一般 1,000円、学生 無料
(飲み物は各自お持ちください)


要 旨

 1) 牟田由喜子: 日本におけるサイエンスコミュニケーションの歴史と現状
私は、インフォーマルな科学教育アプローチにて、科学技術と縁遠い立場にある市民(Indifferent public)を対象にしたサイエンスコミュニケーションの方法論について研究しています。一方で、この研究とは少し離れますが、科学技術立国を維持、強化するための日本の科学コミュニケーション政策はどのように位置づけられてきたか、なども修士論文では触れてきたので、英国、米国などの先進国諸国の流れと日本の現状を交えて少しですがお伝えできればと思います。また、決して知識は深くありませんが、科学哲学との関連として「トランスサイエンス」「科学技術社会論(STS)」の流れなどにも少し触れてみたいと考えております。
参考資料


2) 白石裕隆: 50歳からの「セミ(プチ)矢倉氏的生活」のススメ  
矢倉氏は、フランスでの思索では、日本の日常生活で体験することができない、「広大な思索空間に沈んでいくイメージ」をもつことができると語っている。この「素潜り100m」に相当する体験を一般生活者が真似をすることは難しいが、「少しの視点の獲得・転換」をきっかけに、シュノーケリングレベルまで「水面下の世界」を覗き見することは可能と考える。そんな「セミ(プチ)矢倉氏的生活」の方法論について、当方の見聞体験や考え、社会実践取組者の事例を整理して紹介し、科学と哲学の融合的思索の一歩としたい。 
レジュメ補足資料


3) 林 洋輔: 「文理融合」の実質と哲学の位置―「体育学」の事例から考える―  
人文社会科学と自然科学の学際的な共同研究については現在までに多くの事例を指摘できるのであって、哲学と自然科学との協働事例においてはポパー&エクルズの『自我と脳』、またはリクール&シャンジューの『脳と心』などが挙げられる。ところで、体育学は哲学や歴史学、社会学や人類学といった人文社会系学問に加えて運動生理学あるいはバイオメカニクスや測定評価学といった自然科学系学問、さらには障がい者スポーツを研究対象とする「アダプテッド・スポーツ科学」や「介護福祉・健康づくり」専門領域といった社会貢献を企図した分野に至るまで「人間の身体運動」をいわば鍵語としてあらゆる学問領域が結集する学際的分野である。「文理融合」「学際」のこれからのあり方と科学研究における哲学の貢献方途について、体育学から考えてみたい。
レジュメ


4) 佐賀徹雄: 生物多様性農業 
退職後に趣味の延長で、農業のまねごとを新潟県の佐渡で8年間行いました。主な栽培作物は、米、小麦、果樹(主にブルーベリー)、果菜(主にトマト)などです。放棄されて荒れた休耕田約3000坪を、生物多様性を促進するための耕作地としてデザインし直し、無農薬・無化学肥料で栽培を行ってみました。自然に近い環境条件での農業には、どのような問題があるかを探ってみたということです(生物多様性農業についての私の考えを簡単にまとめた資料をPDFファイルにしました。ご参照いただければ幸いです)。FPSSでは、この様子をごく簡単にご紹介させていただき、これを切り口に、それまで私が漠然と考えていた「自然」とは何か?哲学の根底にある自然観とはどのようなものかを、皆さまのご意見お伺いさせていただきながら議論させていただければと思います。また農業の「経験」は初めてでしたが、人間にとって経験とはなにか、経験と認知の限界の問題なども科学の形而上化に関連してご議論いただければと考えています。  


興味をお持ちの方の参加をお待ちしております

本活動へのご理解、ご協力のほど、よろしくお願いいたします


(2017年7月30日)



会のまとめ


今回は、直前に欠席となった方が3名おられたが、16名の参加を得て開催された。初めての試みだったので、今回は実験的な意味も込められていた。予想通り、かなり内容の濃い発表と討論を十分にするには時間が不足していたことは否めない。ただ、その中でも想像以上の議論が展開していたのではないだろうか。参加された皆様に改めて感謝したい。
以下、それぞれの発表について、わたしなりに簡単に振り返ってみたい。


(1) 牟田由喜子 「日本におけるサイエンスコミュニケーションの歴史と現状」
この発表では、英国、米国、そして日本におけるサイエンスコミュニケーションの特徴を歴史を絡めて分析した後に、科学と政治が交差する領域にある問題を研究対象とするトランス・サイエンスの話題が出ていた。初めて聞く言葉だったが、科学と政治に関しては、科学者の時代に感じていたことがある。それは、科学が進む方向に関して全く口が出せない状況で、誰が決めたのかも分からないような路線の上を歩いている違和感である。おそらく、限られた人がそこに絡んでいるのではないかという感触を持っていたが、もしそうだとしたならば、それでよいのかと考えていた。つまり、科学者は単なる道具にしか過ぎないと考えられている可能性であり、それは、政策の決定プロセスが政治の側からの一方的なものでよいのかという疑念に繋がっていった。政策決定の中身だけではなく、どのような決定プロセスが望ましいのかの議論が必要になるのではないだろうか。その時に重要になるのは、単に科学の中だけではなく、哲学を絡めた議論が展開されることになるだろう。ひょっとするとそれは行われていて、知らないだけなのかもしれないのだが、、。それから、あるところ(例えば、科学)に閉じるのではなく、外(例えば、市民や異文化)に開いていくという方向性についての提案には異論はないのではないだろうか。

(2) 白石裕隆 「50歳からの『セミ(プチ) 矢倉氏的生活のススメ」
わたしがフランスでぼんやりしている時に感じる思索の空間に沈む状態を「素潜り100メートル」と表現されている。泳ぎを苦手とする者にとっては大変な褒め言葉になるが、自分ではその状態を把握できていない。本発表では、仕事をしながらそのような状態に入るための方法論を探ろうとしていた。豊富なデータについての発表だったので、簡単には纏められない。ただ、そこを貫いている態度は、どのような経験も蔑ろにしないという注意深さで、その中から充実した生や発見が生まれるのではないだろうか。今回、art(ars)がよく出てきたが、科学が明らかにしたところだけに止まるのではなく、科学知を包容しながら自然を鑑賞するゲーテの態度に共感を覚えた。また、「マインド・コネクトネス」という概念を出されていたが、これはわたしも感じている「すべては繋がっている」という感覚の下に自分の興味や仕事の領域を広げて行ったダ・ヴィンチが例に挙げられていた。あるいは、ある場の中に身を置いた時、その場にあるいろいろな要素との間に反応が起こり、三人称から一人称に置き換わることがあるという。その場に能動的に参加するという現象が見られるという。この「すべては繋がっている」という感覚が生まれると、どんな時間も蔑ろにできなくなる。なぜなら、すべてが繋がっているので、次に何が出てくるのか油断できなくなるからである。もし、これが本発表の一つのポイントであるとするならば、わたしが沈潜の中で感得してきたことと極めて近いことになる。

(3) 林 洋輔 「『文理融合』の実質と哲学の位置―『体育学』の事例から考える―」
今回初めて体育学について触れた。医学が病人を相手にして、マイナスにあるものを元に戻そうとするのに対して、体育学は健康人をプラスの方向に導くものだという。そこでは、エンハンスメントの問題も扱われるのだろう。少し驚いたのは、わたしの誤解でなければ、単なる真理の探究では評価されず、如何に役に立つ成果を生み出せるのかが問われる学問とされていることであった。体育学が対象としている問題解決の基礎となる知見は、他の科学の領域が担っているということなのだろうか。発表資料の中にいろいろな哲学文献が提示されていて、参考になることが多かった。例えば、プラトン『エウテュデモス』、アリストテレス『哲学のすすめ』、キケロ『ホルテンシウス』、セネカ『倫理書簡集』、今道友信『エコエティカ』など。そして、ガブリエル・マルセルの「荒波に浮かび、声を荒立てるな。それは風に掻き消されてしまうだろう。海深く沈み、そして波を起こすのだ」という哲学に対する見方にも共振するものを感じた。質疑の中にあった子供時代に体育の授業でダラダラ走っていて先生に怒られ、軍隊を連想したというエピソードは、フランスのアパートの前をランニングの授業で走る小中学生の様子と余りにも対照的なので印象に残った。向こうの生徒は全く自由にやっていて、先生がそれを咎めることがないように見えるからだ。最後に、哲学者に「オーガナイザー」の役割を見る人がいるということで、この点は前回の会でわたしが感じたことでもある。それは、哲学にはいろいろな領域を結びつける力があるということである。哲学研究だけではなく、そのような役割を担うことにだって積極的な意味があると哲学の人もそうでない人も認識することで、世の中のいろいろなことが変わってきそうである。

(4) 佐賀徹雄 「生物多様性農業」
工学系の研究所を退職後、佐渡に渡って8年、無農薬、無化学肥料での農業をされた経験から考えたことが紹介されていた。例えば、コメの栽培ではイネミズゾウムシやカメムシ、小麦には赤カビ、ブルーベリーには茶毒蛾、ショウジョウバエやミノムシ、そしてトマトにはコガネムシやウイルスが蔓延るという。また、雑草とイネの比率を見て驚いた。コナギとイネの比率が100対3.6だという。気が遠くなる世界である。それは同時に、人間が自然の中に置かれ、全身で思考する時間だったのではないかということを想像させる。そこから大きな問題として次のような問いが生まれてきたという。一つは、科学的に自然を認識するとは何を言うのか? 二つは、人間は生物圏の一要素に過ぎないのか? 三つ目として、科学技術による環境の変化が人間にどのような影響を齎しているのか? 第四は、科学が文化になるために必要となるものは何なのか? そして最後に、認知と思考の限界との関係はどうなっているのか? これらの問いに対して、これからどのような解を与えていくのだろうか。今後に注目したい。

議論に参加された方にはこの内容を補足するようなコメントもいただければ嬉しく思います。 

また、新たにフェースブックにページを立ち上げました。意見交換、情報発信などに利用していただければ幸いです。ページはこちらになります。よろしくお願いいたします。



参加者からのコメント

● 本日はお疲れ様でした。4題とはいえ、盛りだくさんの討論だったと思います。 科学という言葉の意味が、皆さんそれぞれでいらして、発表された内容をその場その場で理解するのが難しく、ちょっと発言できずに終わってしまいましたが、多様な考えを受け入れる事や、自分のスタンスについて省察する事に取り組めた時間でした。 今日の時間を通して、自己の視点というものを持つために、より学ばねば、と思った次第で、来年の会を一つの目標に努力したいと思います。またの機会を楽しみにしております。
● 本日は、第2回サイファイ・フォーラムに参加をさせて頂き誠にありがとうございました。大変、刺激のある皆様の発表だと感じました。わたしは、還暦を過ぎてから、普通に働く生活になりましたので、それはそれで、面白さもありますが、やはり、 疲れますので、体育学?というのには、やや関心を持ちました。0からプラスにする・・・ということでしたので、 身体的に疲れない体にするにはどうしたら良いのだろうか?なんて思いまして・・・ まだ、頂いた冊子を読んでいませんが、これから寿命が延びる時代と言われていますので・・・興味を惹かれました。
また、サイエンス・コミュニュケーションは、矢倉先生が実践していることでもありますので、一般にも開かれた場を提供されている牟田由紀子さんの活動は素晴らしいと思いました。様々な、コミュニケーションの場があるとは思うのですが、時代が大きく変化している時なので、目先の変化だけでない、高いところからの視点で哲学からの学びは、もっと広がると良いですね。歳を取るのはあまり幸せではないように感じるのですが、その中で、生き方として、やはり、矢倉先生の実践している生き方は、大変素敵な生き方だと感じます。年齢を経ても、やりたいことを学び、そこに開かれたコミュニュケーションの学ぶ場を提供して、お互いに学び合うというのは、最高の喜びの場であると思います。
「50歳からのプチ矢倉氏的生活のススメ」も、最初のうちは良くわからなかったのですが、だんだんと面白いと思えました。実際、わたしは、朝、バス、電車で仕事に向かう時、都会では眺めるもの全てが、科学と直結していると感じるのです。多くがシステムで動き、そのシステムに乗っかって人々は働いていると感じます。その科学の力で動くシステムがダウンしたのが、3.11だったわけです。東京でも、都心で生活しているので余計にそう感じるのかもしれません。手放せなくなっている携帯、PC・・・仕事もPCです。買い物も、PCやTVショッピング・・・電話一本で注文できます。
最後に発表された、自然、環境、人間そして科学技術についての佐賀徹雄さんのお話は、今の地球規模の問題点でしたが、仕事を退職してから農業を実践されて、当たり前のようなことに気がつかされたのかしら?と。科学者は何をすべきか? 最後に、宗教に入ってゆくか、何を実践してゆくか・・・農業も最近では最先端では、人口の光と土は無しで水で育つようになってきています。まさに、スペースコロニーで人間が生きて行けるようになる時代が来ると思われます。わたしたちはそこに行くのは無理だと思うけれど、 その時のことを考えると、地球がどうなっているのか・・・人類はどうなるのか? ですが・・・  11月ごろ、「不都合な真実2」の映画が上映されます。地球環境の破壊がさらに進んでいることをアル・ゴア元副大統領が映画で観せます。わたしも、環境破壊の真実を小説『仮想の楽園』(2009年に出版)にしたことがありますが、やはり、科学というものが経済と結びついていることが大きな問題点だとわたしは思っています。そこに政治が絡んでいるわけだのだと。人間の意識の共有ができれば、温暖化も加速を止めることも可能であると思えますが、人間というのは、目の前に形として現れないと、危機感を持たない・・・生き物であると感じます。そんな中で、声を上げ、考える場を作り実践してゆくということは、大変意味のあることで社会貢献であると思います。
● 矢倉先生、おはようございます。あのような素敵な講座にお声をかけていただき感謝いたしております。研究討論会、よかったですね。研究者ではない私にとっては、研究者の方々の生き方について知識は、森鴎外や寺田寅彦、中谷宇吉郎 等、文献の中だけの範囲ですので、先生方のお話はとても新鮮で、驚きに満ちております。弊社の「目で見る図鑑シリーズ」は、その他10冊ほど刊行していますが、いずれの書籍も、古代からの “もの”のとらえ方や歴史に触れていて、私の大好きなシリーズです。  このシリーズは各国で刊行されていて、フランス語版もあるかと思います。 お時間があれば、お目を通していただければ幸いです。どうか今後ともご指導の程よろしくお願い申し上げます。
● 先日はご苦労さまでした。興味深く楽しい時間を共にさせていただき有り難うございました。早速まとめを頂戴し、さすがの迅速さに脱帽です。しかし無理はなさいませぬよう、くれぐれもお体お大切に。
● おはようございます。先日は、貴重な機会をいただき、ありがとうございました。
1. 牟田由喜子さんの「日本におけるサイエンスコミュニケーションの歴史と現状」 は、大変興味深く、今後の知識のあり方を示唆しているように感じました。これに関しては、矢倉さんが、「まとめ」の中で言及しておられることに 全面的に賛成です。それは、「知識と社会の関係」とテーマ化でき、知識社会学の領域に関わるものと思います。サイエンスコミュニケーションが、科学の面白さや楽しさを伝えることに特化してしまうと、国の科学技術立国の政策に沿った話になってしまい、なぜ原発事故が起きたなど、 科学が含む問題が見えにくくなる可能性があり、科学的知識と社会との関係がテーマ化される必要を痛感します。ただ、それを一般に伝えるのは、さらに難しいコミュニケーション上の問題があるのは間違いないでしょうね。
2. 白石裕隆さんの「50歳からの「セミ(プチ) 矢倉氏的生活」のススメ」 は、とても楽しく拝聴しました。科学と哲学は、根源は同じで、どちらも人間の思考と感性の営みであることを確認できたように思います。白石さんのお話を聞きながら、わたしは、詩人のジョン・キーツ(1795-1821)が 弟に宛てた手紙の中で述べた「negative capability」という概念を思いました。それは、一言で言うと 「事実や理由を追求して、すぐに答えを出そうとせず、不確実性や神秘、疑念の中にとどまる能力のこと」 この能力は科学者にも哲学者にも、等しく必要とされながら、現在社会の経済合理性の中でなかなか寛容されない余裕のような気がします。1.の牟田口さんのサイエンス・コミュニケーションとも繋がってくるかもしれません。
3. 林洋輔さんの「『文理融合』の実質と哲学の位置―『体育学』の事例から考える―」 は、体育学という自然科学をベースにした身体の科学を知ることができたのは収穫でした。ただ、「オーガナイザー」としての哲学という発想は、やや予定調和かな、という印象は受けます。科学者や科学自身が気づかない科学の問題点を指摘するところにも、哲学の役割はあるように思うからです。この点は、manipulation(操作)の問題として、テーマ化できると考えています。詳しい展開は差し控えますが、現在社会を構成する諸原理の一つに科学技術があり、科学技術は、操作の対象であると同時に、操作の主体でもあるということが3.11以降はっきりしてきたのではないかと思います。また、「リズムの問題」への言及が発表中にあったことが非常に印象的でした。身体とリズムあるいは音楽の問題は、心臓の鼓動や原初的な労働のあり方とも関連し、「体育」という考え方は近代のものだと思いますが、さらに根源をさかのぼれば原初的な労働や舞踏とも係わってくる予感を強く持ちました。
4.  佐賀徹雄さんの「生物多様性農業」は、時間がなく、コメントや感想を述べることができませんでしたが、わたしが驚いたのは、その労働です。よくできるなぁと素直に驚きました。もし「愛」というものが、知識の中に存在するとしたら、それは、こうした何かを育てるという行為に媒介されるのではないでしょうか。知るという営みが、それだけで独立していくプロセスには、愛が欠落する。そんなことを思いました。
提案になりますが、このサイファイ・フォーラムは、量より質でいくといいのかなと感じます。発表者を半分の2名あるいは3名にして、発表時間および討論の時間をもっと取れれば、さらに有意義な場になるのではないでしょうか。  前半: 発表、討論 | 後半: 発表、討論 | 全体的な議論および総括のような感じもあるのかなと思います。




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(2017年11月9日)





 

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